ユメハジメハナ side琴子

３月２５日。
少しずつ冬から春へと色を変える町中にはもう分厚いコートは見られなかった。
今年は暖かくなるのが早かったらしく、春らしい薄手のトレンチコートや柔らかい色合いの服を着た女性が町を着飾る。
出会いと別れの季節を象徴するかのように芽吹く桜は花をつけて、新たな門出を祝福するかのように色づいていた。

薄くピンクの桜並木の下を、琴子は医学部の講義室に向けて歩いていた。
さっきまで講堂で紀子と一緒に直樹の卒業式に出席していたが、卒業という言葉が彼女を感傷的にさせる。
思い出をたどるように理工学部へ行き、テニス部へ行き、食堂へも足を運んだ。
どれも直樹の縁の場所であり、琴子にとっても思い出深い場所だ。

６年目の春。

琴子はもう一年あるが、医学部という学部上、直樹も人よりも長い日々をこの大学で過ごしていた。
一緒に入学した者たちはほとんどが卒業を迎えており、いよいよ彼も見送る側から見送られる側へとその立場を移した。
彼はこれからその有能な頭脳を武器に社会に出て行く。

この大学に入学してから本当にいろいろなことがあった。
直樹は一度、初めて見つけた医者という夢を諦めようとした。
それを乗り越えて国家試験にも一度で合格し、無事に配属先が決まって、医者としてこの学舎を羽ばたく。
めでたいことばかりだ。

６年間もあるのだから。

直樹だけではなく琴子にだって、いろんなことがあった。
直樹も転科したが、それは琴子だって同じだ。
夢を見つけた。
直樹のそばで、彼を手伝える人間でありたい。
そう何よりも願っているのだから。
長年の念願かなって入江となった琴子は、自分が一番直樹の夢を応援しなければ行けないと強く思う。
旅立ちは常に、めでたく、笑顔でいなければ。
分かっているのに、桜を眺めながら堂々巡りを続ける琴子の思考は彼女が夫に恋するが故だった。

結婚してからでもいつも直樹を覗きに来ていた医学部の講義室にようやくたどり着く。
後ろのドアから教室に入り、白衣を着て学友たちと医学談義に花をさかせていた彼に思いをはせた。

「入江くん。」
思いのままに彼の名前を音にのせる。
これまでは時に迷惑そうにしながらも応えてくれた。
これからはいくら琴子が呼んでもすぐに応えてくれなくなる。
直樹にはまだ拗ねていると思われているかもしれないが、彼女はもう決心していた。
手放すものの大きさが胸を締め付けるけれど、永遠の別れではない。
今、この手を離す決意をさせてくれたのは他ならぬ直樹だ。
「入江くぅん！」
自然に涙が頬を伝うのを感じながら、琴子は自分の決意を後押しするように彼を呼んだ。
「なんだよ、でけぇ声で。」
返事を期待していなかったのに、背後から聞こえた声に琴子は肩を跳ねさせた。
驚きすぎて涙が止まる。
「わ、わっ！い、入江く…ど、どうして！」
思わずどもりながら向き直るとスーツを着た直樹は琴子に向き直った。
「多分ここにいるだろうと思って…。」
「………。」
その顔は真剣で、数日前に盗み聞きしてしまった、父重雄との会話を思い出す。
「………おまえに話があるんだ。」
「入江くん。」
「家で話すよりいいと思って。」
「神戸の話、「あたし！」
直樹に言わせてはいけない、その一心で声を荒げる。
「絶対１年で看護婦になる。それから神戸に行く！絶対に行く！だ、だからま…待っててね。う、浮気しないでね。ま……毎日電話してもお、怒らないでね。」
一息に言ってしまって涙に声が詰まる。
「それから休みに……会いに…」
直樹の顔は見れなかった。
近づいてくる気配がして唇が重なる。
そっと抱き寄せられて琴子は頬を赤らめた。
大きな胸に甘えたかったが遠くから人の気配が近寄ってくる。
「い、入江くん。人が来るよ。」
おずおずと胸に手をつくと、直樹は再度彼女の唇を奪った。
「いいよ。見られたって。」
高校の卒業式の時とは違う、思いのこもったキスに琴子はそっと目を閉じた。

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タイトルはKin/Kiのマイナーな曲から持ってきました。
ちょっと暗めの曲です。
でも未来に向けてのお別れから前向きにしてみました。

赤い花のようですが桜をイメージ。
本当は桜が咲いているうちに書きたかったのですが、関西はほぼ散ってしまいました。
相変わらず会話分が少ないですが、直樹編も書きあがっております。
直樹編は明日公開予定です。
もしかしたらこのまま神戸から斗南病院へと春夏秋冬書くかもしれません。